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BLOGあしあとのかなたに

今日という日は、昨日亡くなった人が何としても生きたかった1日

2022.09.11

母の死と現実感のない今日を過ごした日々

私は小学5年生の時に母を亡くしています。
母は体が弱く私を生むことを医師から反対されましたが、私を産んでくれました。
それにより母の寿命を縮めることになりました。
私は母に命がけで産んでもらったので、母の分も生きなければならない。自分に価値がなければ母が生きた意味がなくなると生き急いだ気持ちと、自分には母が自分を犠牲にしてまで生んでくれた価値はないという気持ちを持って育ちました。
何か目標を持って人生を楽しみたいというより、母の死んだ年までは生きていないといけない。
私の人生設計は母の死んだ年までしか思い描くことはできませんでした。
自己実現の意欲がなく現実感のない日々を過ごしていました。

母が生きたかった今日

そんな時に何で見たのかは覚えていませんが、
「今日という日は、昨日亡くなった人が何としても生きたかった1日」
という言葉に出会いました。
凄く心に響きました。
母はどういう1日を生きたかったのだろう?私にどんな風に生きてほしかったのだろう?
と考えました。
母は生前に
いつか息子と人生のもたらす人との出逢いの素晴らしさを、そして生命あるものをいとおしむことをいつか語り合いたい。
という言葉を残してくれていました。
その頃も母の亡くなった年を超えた今も、母と人生の素晴らしさを語れるほどの人間力はまだ私には身についていません。
いつか母に人生の素晴らしさがわかりました。ありがとう。
と言えるように
今日、今ここで出会う人、自然を大切に日々を過ごしたい。
今日を大事にしよう。
と思います。
やる気のでない日もあります。そんな時に母の笑顔を思いだし
今日は母が何としても生きたかった1日
と自分に語りかけると不思議と力が湧いてきます。