子どもひとりを育てるには一つのまちが必要
アフリカのことわざ
【子どもひとりを育てるには一つのまちが必要】は世界中で引用されているアフリカのことわざです。対話の勉強する中で、このことわざを思い出すことがあったので、紹介したいと思います。
会話と対話
会話は親しい人のおしゃべり、対話は知らない人との間の情報の交換や知っている人同士でも価値観が異なる時のすりあわせ。会話はわかりあう、さっしあう文化で日本文化的、対話は説明しあう文化でヨーロッパ社会的かと思います。
私自身、自分の考えと相手の考えの違いを対話でおりあいをつけていくのでなく、相手の望みをさっして動く、同調圧力で行動する習慣が身ついているのでないか。将棋で例えると将棋の指し手でなく、将棋の駒になっている。自身でやるのなく、何かにやらせるている感覚ではないでしょうか。
対話がないと主体性、多様性、協同性を育たない。自分と異なる意見や少数意見のよさを生かしたり、折り合いをつけたりして話し合い意見をまとめていき、協力して何かをやりとげる経験が少ないまま、大人になることが、生き辛さを感じる一つの要因のような気がします。
なぜ対話が少ないのか
私は家庭等の身近な場で対話する時間的ゆとり、場所がないことに問題を感じていましたが、今回、そもそも対話が必要ない環境に子どもがおかれているという考えを聴き、別の視点からの大きな問題意識を持つことができました。
少子化、核家族化、地域社会の崩壊で他人のいない環境で育つため、対話がなくても、ほしいものは与えてもらえるので、そもそも対話する必要がない。主体性、多様性、協同性を求められる環境がないという事です。自分のいる周囲が知り合いばかりといういう事は、自分が周囲の期待を察して演じる役割も複数ないので、その負担が大きくなり、演じさせられている。という負担になり、生きづらさを感じるほどのストレスを感じている面もあるということです。
本来、子どもに自主的に学ぶ力を身につけさせる事が、その子どもの生きる力につながるのではないでしょうか?
その生きる力を身に着ける環境がないという視点から大きな問題点を感じました。
少子化、核家族化、情報社会で対話を必要としない環境、対話しなくてもほしいものが与えられる環境、この中で対話が必要な多様性は身に着けるには、他人が必要です。地域社会の担う役割は大きいです。
【子どもひとりを育てるには一つのまちが必要】
若者のリトリートだけでなく、地域間交流できるワークショップを企画していきたいとあらためて感じました。