ハレ ケ ケガレ
循環しない日常
「自殺社会」から「生き心地の良い社会」へ(清水康之、上田紀行著)を読んで感じた事の3回目である。
昔から、≪ハレ≫≪ケ≫≪ケガレ≫ということが言われていますね。でも昔は、≪ケガレ≫や≪ハレ≫の部分があってもそれは一時的なもので、いつでも≪ケ≫に戻れるようなものだったと思うんですが。
≪ケ≫つまり、日常に戻っときにありがたみを感じるための≪ハレ≫であり、≪ケガレ≫であった。でも今はそれが戻れなくなっちゃっている感じがするんですよね。
そういう意味では、ハレとケが循環していないんですよ。まさにそのこと自体が、≪ケガレ≫です。「気が枯れている」という本来の≪ケガレ≫ですから。通常は大きな気が循環しているのに、その循環が止まってしまったわけで。
あと、その人自体に≪ケガレ≫が存在するという意識は、ある意味で関係性の論理を失ってしまったということです。つまり、日本の伝統的な感覚では、一切はいろんなご縁の中で起こってくるという考え方があったわけですから、何か悪いことが起こっても、それは本来、その人ひとりの責任などではないはずなんですよ。たまたま周囲の環境や状況が重なって、その人のところに悪いことが起こってしまったわけですから。
そうしてみると、まさにここ10年来の「自己責任論」が問題になってくるわけです。
「自己責任」とは、その≪ケガレ≫を固定化することに他なりません。すべてが「自己責任」だからこそ、「死んだのも自己責任」なわけで、常に個人のみが責められていく
自分以外のはたらき、生かされている自分を感じる。そうすれば自分を許し、他人を許すことができるのではないだろうか。立ち止まって呼吸でありとあらゆるものと繋がっていることを感じることを忘れないようにしたい。