水俣・福岡展を観て
「チッソは私であった」
今回の水俣・福岡展の緒方正人氏をはじめて知りました。緒方氏は自身が幼少の時に、父親が水俣病で狂死し、自身も水俣病患者である。加害者であるチッソを許すことなど到底できるはずなどないと思う生い立ちである。そんな緒方氏が、水俣病被害について闘争していく中で、人がいない魂のない得たいの知れない巨大なシステムと闘っていると感じ、自身を見つめ直し、また現代社会の、また現代社会を生きる自分自身の罪を感じ、そこから生きていること自体の業に気づき、生かされていることに感謝し、今、現在の言葉を聴いて、あらためて水俣病の歴史を観てみたいと思い、展示パネルを、観ました。
展示を見ると、水俣病の原因についてわかっていたのに隠し続け、また原因について認めた後も患者の認定、賠償について少なく、安くしていこうとする思惑、国、行政、起業、医師に怒りを感じ、いわれのない差別や偏見の中で亡くなった方の命を考えるとやるせない気持ちになりました。自分が当事者であればこれを許すことができるのか、それは自分には困難なことだと感じました。
しかし、このようなシステムの中で作られた物を消費して、生きる以上の娯楽を楽しんで近代社会の中で自分も生きてると感じました。
自分も現代社会のシステムの恩恵を受けてみえない被害者をつくることに加担しているのではないだろうか?
今日、着ている服は、食べた物、移動に使った車や電車、これはどのような生産工程でつくられているのだろうか?はなやかなCMで、隠されているが、途上国の資源や環境、子どもの人権を搾取して、つくられたものではないだろうか?
「展示の終わりにあった言葉」
「最大多数の最大幸福の追求が少数者への苛烈な抑圧を生み出すのみならず、結果として、多くの現代人の存在の希薄化と関係性の腐食をもたらし始めています。
私たちは、自らの理性を再び信頼し、他者の存在と自然に対する敬意を大切にして、それぞれの日常を問い直すことからしか新たな可能性を見出せないのでは、ないでしょうか?」
若者が希望を持つ大人の姿をみせれるようになるには、高度経済成長からバブル経済とその崩壊、そして混迷の今日まで突き進んできた日本の歩みをシステムの責任として、他責にせずに、人の責任として自らの責任を問い直し、見つめ直す必要があると思います。